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Chapter29では、参加者の皆さんの自然な会話の中からキーワードを拾いながら、いつもホワイトボードに整理しています。誰かがプログラムやコンテンツを用意しなくても、内なる御方が互いの信仰に働かれているのを感じずにはいられません。

茨城のまこさんが、信仰放談「計画」のメモをとってくださっています。彼女のブログからそのまま転載させていただきます。こういうかたちで時空を越えて交わりに参加してくださっているのは、本当に嬉しいことです。

以下、メモを記してみます。
語られた言葉の忠実な写しではなく、言葉が変えられている部分もありますことをご了承くださいませ。

「だから、あなたがたのためにわたしが受けている患難を見て、落胆しないでいてもらいたい。わたしの患難は、あなたがたの光栄なのである。」(エペソ3・13)

パウロは神の壮大な計画を伝えようとしているのに、牢獄に綱がれているという状況だ。
この苦難がエペソ人の栄光になると書いているのが分かりにくい。
しかし、キリストが内におられるというのが御心であり神のご計画であり神の栄光なのだ。
内におられるキリストが栄光であり希望である。
内におられるキリストが奥義であり、計画である。
救われたことも日常の出来事も全て神様の計画であり、救われたことと日常の様々なことが別々なものではなく、救われたことと日常が繋がっているとパウロは見ている。
日常の色々も救われたことも神の計画のうちにあるとパウロは考える。
パウロはキリスト史上一番キリストに近い人だった。
福音を宣べ伝えようとしている彼が牢獄に監禁されているのはどう見ても良い状態ではない。
それでも、彼はこの状況を神の栄光と表現しているのだ。
宇宙を造られたお方が、義の極み、聖さの極みであられるお方が、正に今、自分の内におられるというのは、神が私という肉体の牢獄に監禁されている状況だ。
そのことをパウロは理屈ではなく、徹底的に味わえたのではないか。
獄中にいてさえも、キリストが内におられるなら、それが神の計画であり、栄光だと言い切れる。
苦難があなたがたの栄光だと言い切れる。
歴史の中で神の壮大な計画を見ると同時に、同じように牢獄にいる自分をも計画の内にあると言えるパウロ。
牢獄にいる私の内にキリストがおられるということ自体が凄い栄光だと言い切れる。

saltさんも相当しんどくてきついけれども、つくづく神の計画だなあと感じているそうだ。
だからこそ分かること、だからこそ味わえることがあると仰っていた。
つぶやきも出てしまいがちな時だけれども、そんなしんどい時こそ神の計画を感じる。
なんでこんなに時間がないの、疲れが取れないのと思うような時こそ、共におられる方の味わいが違うものに感じられる。
これで良いんだ、お前に恵みは十分だと言われてる気がする。

紆余曲折があっても、どの一刻一刻も、いつも神が共におられる時には神の計画であると言える。
非常に上手くいっている時にも上手くいっていない時にも神は共におられるというのが神の計画なんだ。
幸運じゃない時にも上手くいっていない時にも神は共におられるといってくださり、神のご計画なんだと思える。

今回、ヨセフのところを読んでくるように予め打合せしてあった。
神の計画というものは色々苦しいことがあるけど、やがては全部変えられて良かった良かったとなるんですよ、今の艱難は将来に用意され祝福に比べればとるに軽いものであるとか、全てのことを働かせて益となるという解釈も確かに間違いではない。
紆余曲折を経て、最終的には祝福に導いてくださるというのは間違いではない。
けれども、違うなあと思う。
神の計画というのは、紆余曲折があっても最後には「めでたしめでたし」というストーリーが描かれているのだから、そこに委ねなさいという意味だけではなく、その時々刻々神が共におられるということ、これが神の計画だということに気が付く。
良い時にも悪い時にも主が共におられることを味わうための紆余曲折なんだ。

また、ヤコブは、約束された神の計画があったのに、策略に生きた人だった。
約束の地では祝福を得られず、最後はエジプトに売られた息子に頭を下げていった。
これは、全体像としては、イエスがユダヤ人に捨てられて、異邦人のところで崇められて救いがもたらされ、もう一度ユダヤ人のところに引き寄せられるという、これから私たちが見るであろう、壮大な救いの計画の物凄い美しい型なのである。

ヨセフの物語からは何重にも織り成されている神の計画を読み取ることができる。
ヨセフが兄弟に「あなたがたは悪を働いたけれども、それは良いことのための神の計らいだった、それは神様の為さったことだ。」と言った言葉にキリストの型を見たように感じた。
人への愛憎を越えて神様の計画を見ているヨセフは素晴らしい。
時間や場所を自由に使っている。
神の霊が宿った人だと言っている。


神の計画のどの辺にいるのか。
神様の栄光のためにキャスティングされているわけだけど、パウロは私が苦しんでいることがあなたがたの栄光だと語る。
ただ単に祝福を享受することもできるのに、誰かの為に苦しみに与る。
誰かの為に自分を注ぎ出す。
そういう役割を負っている、そういう自分を注ぎ出す中で、苦しみの中で、そこにおられるキリストを味わう。
ただ単に祝福に与るだけではなくて、より深いところ、より中心にイエスと共にいる味わいを感じる。
パウロという人は本来使うべき特権を全部放棄して本来享受すべき祝福も投げ捨てて、もっと深いところもっと深いところに行こうとする。
彼の願いは十字架ではなく、復活に達したいということだ。
復活に達する為に、自分を無にしてキリストと同じように、仕える者となっていった。
キリストは自分を無にして仕える者となって十字架に向かわれた。
そこに自分を重ねようとしていた。
だからこそ、復活に達することができる。
そういう深みに入っていくことの素晴らしさを覚える。

ヨセフと神は共におられた。
けれども、新約の時代には私たちの内側にキリストがおられるようになった。
全く違う。
私たちと分かち難いほど、私たちの奥深くにキリストはおられる。
キリストの内におられるのが感じることができるし、味わうことができる。
パウロはそれを味わいたかった。
パウロがそれを十分に味わい知るには牢獄にいる必要があった。
共におられるイエスではなく、内におられるイエスを味わう為には自分は牢獄にいなければならなかった。
パウロが自由に動き回って才能をフルに回転させて時間と能力を100%使っていたら、彼はその味わいが少なかったと思う。

それぞれに神の計画があって、ぺテロにはぺテロのヨハネにはヨハネの計画がある。
ぺテロがヨハネの行く末を尋ねたら、キリストは「そんなのお前に関係ないだろう」と叱られた。それぞれにそれぞれの道行きがあるわけでパウロのパターンが全部素晴らしいので、とにかく牢獄にいなさいということではない。
時間があったら悪いわけでも不自由にしていたら良いわけでもない。
病気や経済的困難や家族の問題があるのが良いわけでもない。
それぞれに神の計画はあるけれどもコアの部分、核の部分、中心には紆余曲折の人生を導くことにではなく、刻一刻、一時も離れることなく、私たちの内におられる方を味わえることが、味わえるようにされたことが計画なのだ。
そこに神の計画の中心部分があるような気がする。
そのことを可能にする為に小さな私たちの内側に入ってくださる為にイエスは小さく小さく砕かれ無のようになってくださった。
誰もかもが牢獄に入る必要があるというのではなく、それぞれに置かれている場所がある。
それそれに計画はあるけれども、刻一刻に働かれる神の計画を味わえるためにキリストが小さく小さくなってきてくださった。これが神の奥義、福音の奥義の核の核なのではないか。
このイエスに信仰のフォーカスを当てていくことが大切なんじゃないかな。

「神はわたしたちを救い、聖なる招きをもって召して下さったのであるが、それは、わたしたちのわざによるのではなく、神ご自身の計画に基き、また、永遠の昔にキリスト・イエスにあってわたしたちに賜わっていた恵み、 そして今や、わたしたちの救主キリスト・イエスの出現によって明らかにされた恵みによるのである。キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不死とを明らかに示されたのである。 わたしは、この福音のために立てられて、その宣教者、使徒、教師になった。 」(第二テモテ1・9〜11)
パウロが牢獄に閉じ込められている中で神の御心の計画を手紙で記している。
牢獄に閉じ込められている苦しみを光栄と言えること、置かれた状況の中で神様の栄光を表している、こういう姿が主にある者たちの名誉であり、誇りなんだとエペソの兄弟たちに伝えている言葉はキリストが内にあるということがどるだけ素晴らしいかを伝えている。
パウロがどのように福音を理解して、神の栄光にあるということがどのようにことかを教えられた。
キリストが内におられることの価値はこの世には秘められたものだ。
後に明らかにされるもので、神様は敢えて、この世の価値感に評価されることに左右されないように配慮されているのかなあと感じた。
この世の評価から守られている。
「そんなに言うならじゃあ、なんで牢獄にいるのか」と言われても仕方ない状況だ。
けれども、人間はちやほやされたら勘違いしてしまうから。
あまりにも理不尽で不当な評価がないにしても、正当な評価に至らないことが多いかもしれない。
パウロはこの苦難が恥とは思わないと書いてあるが、反対に言うならは実に恥ずかしいことだ。
「そんなに言うなら牢獄から出てこいよ」と言われても仕方ない状況だ。
それなのに、「恥じたらいかん」と言っている。
神の計画だと分かっている。
普通に考えたら、そう思えないから信仰を働かすんだ。
キリストが内におられるのが栄光なんだ、それが神の計画なんだ。
内におられる方にフォーカス置いていきましょう。
肉にとっては耐えがたいものだ、臆病にもなる。
しかし、内におられる方は力と愛と慎みの霊だからキリストにフォーカスを置いていきましょうという呼びかけをしている。
「というのは、神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。」(第二テモテ1・7)
パウロは自分の置かれている現状と神の計画とを互いに互いを取り込みつつ、重ね合わせていく。
信仰者はその人の人生が語る。
人生や人格そのものがメッセージになっている。

私たちもキリストにフォーカスを置いていこうではありませんか。

by lastsalt | 2014-02-16 12:15 | Comments(0)

2月のChapter29を終えて


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昨日の雪が残る中、それぞれにかなり無理して集まっていただいて、本当にありがとうございました。ノーマルタイヤ(4駆ですが)で奈良盆地を横断してくれた方、京都経由の特急電車で来てくださった方。それぞれのうちにおられる方の語られるメッセージに耳を傾け合い分かち合えた気がします。

信仰放談のテーマは「計画」でしたが、思わぬ銀じ郎さんのフリに応えている自分自身のことばに深く慰められるという不思議な経験をしました。これもシナリオを書かれる方の計画の一部だったのでしょう。いつもながら不十分ではありますが、私たちの現在の信仰を伝えさせていただいています。

次回は3月15日(土)
2014年は、ますます新しくなるChapter29
SIGNさんプレゼンツの木工ワークショップも開催予定
by lastsalt | 2014-02-16 00:16 | Comments(14)

大雪警報


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どうして気象台はいつもとんでもなく間抜けなタイミングで警報を出すのか?
学校関係者にとっては、まさに「嫌がらせ」としか思えないような間の悪さである。
天気が予想できても、「判断力のない人」がいろんなことを決めていてはどうしようもない。(極めて個人的で感情的な意見であることは承知の上)気象台の皆さん、すみません。
高校の文化祭で雨なんか少しも降らないのに警報を出されて以来、私の怒りは未だに少しもおさまっていないのだ。あれ、もう30年以上経ったの?

「今」「ここ」が危険かどうかなんて、誰かに決めてもらうんじゃなくて、各自で判断して何とかすればいいと思うがなあ・・・
by lastsalt | 2014-02-14 18:55 | Comments(4)

あっぱれ、関西ボーダー


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スノーボードHPで、あのショーン・ホワイトの上を行く銅メダル獲得した平岡選手は、奈良県御所市出身。しかも、彼の兄貴はSalt.Jrと同じ高校に通っていたらしい。インタビューののんびりした御所弁も好感が持てる。十分な練習場所がない奈良県の選手がオリンピックの舞台で活躍するのは本当に凄いことだ。

それにしても、息子の才能を信じて毎週岐阜まで通い詰めたお父さんの執念に驚く。いつも滑れる環境にない子がこのレベルに達するというのは普通は絶対にあり得ない。それは本当に凄いと思うが、あらゆる分野で子どもに過剰に夢を託す親が増殖するのも気味が悪い。

私は3人の子どもたちには何も負わせようとは思わない。ただ、スベってもらうとちょっと困る。はい、もうすぐ当落ボーダーライン上にいるJrの2次試験なので。
by lastsalt | 2014-02-14 00:05 | Comments(0)

船を編む


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「仕事どっぷり」からちょっと抜け出したくて映画館へ。石井裕也監督の「船を編む」を観た。船を編むとは辞書を編集することの比喩。「辞書をつくる」という地味なテーマを地味に描いた作品だが、辞書が同音異義語が作為無く隣り合う洒落の宝庫であるように、辞書のように真面目な主人公がどこか面白い。Salt的には「血潮」ということばが抜け落ちていて校正をやり直すあたりが、本来の見せ場ではない味わい深さであった。ことばの貧困さが気になる昨今だけに、この時代錯誤の辞書映画は実に画期的だ。

【解説】
 2012年本屋大賞第1位に輝いた三浦しをんの同名ベストセラーを松田龍平主演で映画化した感動ドラマ。新しい辞書の編纂という一大事業に取り組む辞書編集部に配属されたマジメで不器用な青年が、地味で気の遠くなるような作業のなかで個性豊かな編集部員たちと織り成す人間模様と、板前を目指す下宿先の孫娘との恋の行方をユーモラスかつハートウォーミングに綴る。共演は宮崎あおい、オダギリジョー、黒木華。また、八千草薫、小林薫、加藤剛らベテラン勢が脇を固める。監督は「川の底からこんにちは」の石井裕也。
 1995年。玄武書房に勤める青年・馬締光也は、真面目すぎる性格ゆえに営業部で浮いた存在。そんなある日、彼は言葉に対するセンスを買われて辞書編集部に異動となる。迎えたのは、定年間近のベテラン編集者・荒木やお調子者の西岡ら個性あふれる面々。辞書編集部では現在、新しい辞書『大渡海』の編纂に取り組んでいた。馬締は彼らを通して辞書の世界の奥深さに触れ、辞書作りに没頭していく。そんな馬締がある夜、下宿先の大家と同居することになった板前修行中の孫娘・林香具矢と出会い、一目惚れしてしまう。言葉を扱う仕事をしていながら、彼女にうまく自分の思いを伝えられず苦悶する馬締だったが…。

by lastsalt | 2014-02-13 23:24 | Comments(2)

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最近はあんまり元気もない。時間もない。たまに時間があっても寒い。寒すぎる。「こんな寒さ、何て事ないやん」と、はねのけるパワーがみなぎらず、「明日も仕事やし・・・」と大人しくしていることが多いこの頃。バイクも全く乗れていない。ちょっと情けない。

銀じ郎さんが、「ライダー・ジャケットはやっぱりぬくいよ〜」と、バイクに乗らない時まで羽織って見せびらかすので、私もいろいろ探していた。

給油するのを忘れていてアクセラがガス欠寸前。スタンド経由でちょっとドライブ。ナンカイのショップをのぞくとセールをしていた。気に入ったものがあったので購入。帰って来たら真っ暗だったので今日は無理。バイクで通勤はあんまり現実的ではないし、ジャケットは買ったものの、いつ乗れるかなあ。
by lastsalt | 2014-02-11 22:51 | Comments(6)

パリの散歩道


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I remember paris in ’49
The champs elyses
Saint michel and old beaujolais wine

And I recall
That you were mine
In those parisienne days

Looking back at the photographs
Those summer days
Spent outside corner cafes

Oh I could write you paragraphs
About my own parisienne days

これは、フィギュア・スケートの羽生選手が使用したことで注目が集まった「パリの散歩道」の歌詞。詩人としても評価の高いシン・リジィのフィル・ライノットによる。

フィルは駐屯中のブラジル兵の父との間に生を受けたが、父の記憶はない。その父の名前がパリスだという。

サンタナを思わせる粘り気のあるメローなフレーズが印象的だ。羽生選手のお気に入りの曲だそうだが、こんな70年代の曲を若い彼がどこで知ったのだろう。彼が取り上げたことで一気に注目を集めたようだが、羽生君とゲーリー・ムーアでは、あまりにも印象がかけ離れているが、不思議なマッチングだ。
by lastsalt | 2014-02-11 21:51 | Comments(0)

on ice


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ソチオリンピックの開会式と女子のフィギュアスケートを少し見た。開会式ではチャイコフスキーやストラビンスキーが効果的に使われていて、さすがロシアというスケールを感じた。

フィギュアスケートでは、スケーティングの技術についてはほとんどわからないので、演技にどれだけ音楽が効果的に使われているかというポイントだけ見ていた。

アシュリー・ワグナーはピンク・フロイドのクレイジー・ダイアモンドを使っていたが、デイブ・ギルモアのディストーションとコーラスの効きまくったギターが氷上に流れると妙にマッチしていて面白かった。振り付けもよく練られているなと感じた。浅田真央はおなじみのショパンのノクターン。私は真央ちゃんもショパンも好きだが、どうしてこの曲を使うのか、もうひとつピンと来ない。高橋大輔は今さら曲を変えるわけにもいかないので、新垣氏の曲をそのまま使うようだ。これもどんな曲なのか演技とともにちゃんと鑑賞したい。

実は4年前のオリンピックの時、女子フィギュア・スケートを見ながら、on iceという曲を作曲している。これはとてもシンプルなリコーダーの練習曲だが、pruneのライブでもたびたび演奏してきた。今年も新しい曲が生まれるといいな。
by lastsalt | 2014-02-10 00:15 | Comments(2)

ゴースト・バスター


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私たちは先生の優しい人柄にふれ、音楽を愛することの素晴らしさを感じ、謙虚に生きることの大切さを学びました。また先生は、ひとつの音符たりともおろそかにする方ではないことを私たちは存じております。義手のヴァイオリニストに捧げられた作品、東日本大震災の被災者のために捧げられた作品。いずれも、佐村河内氏の要求する音楽の内容に、それはそれで応えながらも、しかし人影に隠れて、思いやりをもって書かれたことは、先生の性格を知る私たちにとって想像にかたくありません。

これは、新垣氏に対する桐朋学園の処分に対して、彼を慕う教え子や音楽家の同志が発表したコメントの一部。現役の学生や過去の教え子の方々のコメントを読んでみても、新垣氏は優れたゴーストとなりうる職人であるとともに優秀な音楽教師であったことも伺える。彼の誠実さや謙虚さを讃える声も少なくない。

人は強い酒を求めるように、いたずらにドラマを求め、刺激的な見世物を欲する。そうした俗心を利用して自ら偶像になることを欲したサムラゴーチ氏は、さしずめ安っぽい宗教家である。新垣氏は仏師のような匠の技で、信仰の対象を刻んだわけだ。
by lastsalt | 2014-02-08 13:51 | Comments(2)

こだわらないこだわり


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佐村河内氏が新垣氏に渡していた指示書が実に面白い。これが、佐村河内氏の代理人が言うところの「自身のイメージを、別の人物に具現化してもらう形式での創作活動」にあたる。

どちらに著作権があるかと言えば、如何様にでも解釈できるこの大雑把なイメージを譜面にした新垣氏に軍配があがるのは当然だが、佐村河内氏のこの指示書による方向性や制限があればこそ、新垣氏の曲が出来たことも事実。

実際に専門家の意見も分かれている。「このような図表を描くことは作曲ではない。問題外」と断じる声もあれば、「佐村河内さんが作曲を『しなかった』とも言えない。最初から『共作』と発表していれば問題はなかった」と弁護する声もある。

十分に耳が聴こえていながら、自分が作らなかった曲に注目させるために「ろう」を装った演出は、すべての障害者とリスナーを侮辱するものだ。そうしたドラマによって意味付けられた楽曲を、別の作者の独立した音楽として再評価することは極めて困難であって、その困難を越えて時間を費やす意味もあまりなさそうだ。はじめからややこしい名字なんだから、佐村河内新垣という屋号にしとけばよかったのに。

改めてジャズピアニストの渋谷毅さんとのやりとりをご紹介しよう。

「渋谷さんはたくさん素晴らしい曲を書いておられるに、どうしてライブであまり自分の曲を演奏されないのですか?」
と私がたずねると、
「別に自分の曲じゃなくても、いろんないい曲がいっぱあるからね。それに、ある曲を誰が作ったかなんてボクにとってはどうでもいいこと。ボクはどの曲も自分の曲だと思って演奏しているよ。」
と、美味しそうに煙草をふかしていた。

本当に良いものは、それを提供する者も、それを味わう者も、その共有する価値にふさわしいそれなりの品位や教養が必要だということ。
by lastsalt | 2014-02-08 00:47 | Comments(4)