ウイキペディアによると、
カツカレーは、1948年(昭和23年)に、東京都中央区銀座の洋食店「グリルスイス」で生まれたと言われている。常連客だったプロ野球・読売ジャイアンツの千葉茂が「別々に食べるのは面倒だから」と注文したことがきっかけで、グリルスイスとその系列店では現在も「元祖カツカレー」と「千葉さんのカツカレー」というメニューを出している。また、それに先駆けて1918年(大正7年)に、東京市浅草区浅草(現・台東区浅草)の洋食屋台「河金」が豚カツを載せた丼飯にカレーを掛けて「河金丼」と称して提供したともいう。
子どもの頃から、カツカレーが好きだった。
とってもいいことがあったとき、ちょっと思い切って、カツカレーを食べた。(学生時代の私は、食事代を最小限に抑えて、本やレコードを買っていたのだった)カツカレーを食べると、そんな美味しんぼ的なノスタルジーが、旨さを倍増させる。
カツをカレーと合体させる画期的アイデアは、れっきとしたジャパン・オリジナル。インド人もびっくり。欧米でも人気があるのだ。
さて、カレーは前置きで、こっからが本論。
道徳を教科にするにあたり、教科書の検定が行われたが、その中で、「パン屋」を「和菓子屋」に変えるように意見がついたと報じられた。悪い冗談かと思ったが、本気だからちょっと怖い。それにしても何とも薄っぺらい愛国心である。
私は、日本人の心の芯にある侘び寂びをボサノヴァで体現していると自負しているが、下手すれば、「ギターを琵琶に持ちかえて、古典を吟じるべし」と指導が入りそうだ。
国民のモラルが高いことはよいことだが、権威や周囲の顔色を伺って予定調和的な反応に溶け込む能力にまで偏差値をつけるのは、いかがなものかと思う。
私が30年近く前に書いたテキストが、教科書会社に採用されたことは前にも書いた。道徳推進派だと思われたくないので断っておくが、それらのテキストは、文科省の指定研究を受けた時、当時出版されていたすべての教科書会社のすべての資料を読んで気にいったものが何もなかったので、仕方なく自分で書いたもののひとつである。
ちょうどタイミングよく、同じ時期に教科書会社からも執筆依頼があって、指定された徳目に合わせていくつか書いたのだが、採用された「おかあさんのおなか」をのぞく他の作品はすべて不採用となった。
不採用の理由はこうだ。私は徳目をむき出しにするのが嫌で、子どもが読んで『正しいってどういうことだろう』と立ち止まる価値葛藤の場面をどの作品にも盛り込んだのだが、それが話を難しくしているということだった。文章表現の豊かさはいずれも他の執筆者を上回っているが、全体との調和を欠く文学的な仕上がりになっているので困るというのだ。
カツカレーは洋食で、パン屋は反日的ではないにしても日本人らしい職業選択ではないというのが、役人の感性である。まあ、教科書というのは、こんな風に出来上がって、血税を使って無料配布されるのだ。
採用にあたっては、教科書会社は文科省の意向を「忖度」したと言ってもいいだろう。しかし、忖度された側は、「そんなものはない」というのが通例である。そもそも、それを忖度というのだから。そんなものは存在しないからこそ、なおどうでもいいような意見を加えて修正させて、自己満足するのが役人の落としどころである。天下りは、今後も巧妙に隠してなくなるはずがないし、その程度の旨味がなければ、役人は今やっている程度の仕事もしなくなる。
庶民は役人を羨ましがって責めるだけではなく、きちんと彼らの具体的な仕事に対して具体的に意見を言えばよいではないか。
私が公立学校にいてクビにならない程度には、まだこの国は自由なのだ。