戦後70年目に取り返しのつかない愚かな決定をしようとしている。言わずもがな、安保関連法案のことだ。私は衆愚政治の責任の一端を負う者として、控えめに発言してきているつもりだが、これだけの歴史的暴挙が行われながら、何のコメントもしないことはさらに無責任だと思い、少しだけ書くことにした。
衆愚政治の一端を負うというのは、あくまでも民主主義の手続き上、どうしようもなく発生してしまうものだが、実際の感覚としては、嘘つきで不誠実で頭が悪いあの3拍子揃った最悪のリーダーを選んだ覚えも、支持した覚えもない。
選択肢の貧しい選挙は、当たりのない宝くじのようなもの。だから、そんなくじはくじとして成立しない。宝がなければ、空くじである。だから政治家はタヌキなのかなどと嘯きながら、ますます政治に無関心になる人が増えて行くのだ。
しかし、政治的無関心の代表であった若者たちが、声を上げ始めた。今度という今度は「いいかげんにしろ!」と叫んでいる。何というまともな反応だろう。本当は無関心なんかじゃなかったのだ。無関心を装わなければならないほど、この国はずっと絶望的だったのだということ。でも、もう黙ってはいられない。退屈な国では退屈をしのぐ方法を探せばいいが、戦争する国にだけはしたくない。
憲法を改正したいのは、現状に矛盾を感じているからで、それができないから解釈を変えるという筋道の作り方は、もはや憲法云々の問題ではなく、自分の思いの正当化でしかない。まるで理屈に合わない荒唐無稽な解釈で先人たちの努力を踏みにじろうとしていることは断じて許されることではない。
「国民の暮らしと安全を守り抜く」などと言いながら、法案を提出する前にアメリカ議会で約束し、「十分な議論を重ねて」と言いながら、質問に対して何一つ誠実に応えることなく、耳を塞いで馬鹿のひとつ覚えのように自分の言い分を繰り返すのみ。挙げ句の強行採決である。
憲法を初めて習った子どもたちと9条について論議すると、実に多様な答えが返って来る。30人の平均的な小学生に、色付きではない基本的な情報を与えるだけで、戦後70年間に大人たちが語り尽くしてきたほぼずべての意見が出て来る。
まともな議論は何もなされていない。小学校の社会の時間には、国会よりも遥かにまともな話し合いをしてきたぞ。そもそも国民の意見を全く聴く気のないこの国の、どこに民主主義があるのか。
私は一国民として、今回の採決を断じて許さない。