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ギャップ


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サファリからどんな車に乗り換えるのかは、結構悩んでいた。車は好きだがそんなに頻繁に買い替えたりするタイプではない。選ぶ時間も楽しくないでもないが、そんなことにたっぷり費やせるほど時間もないし、それほどの資金もない。かといって、「どうでもいいや」と安いダサい車になんか乗りたくない。せっかくだから、ギャップが大きい方が面白いだろう。私は物事をそういう具合に考える性質があるようだ。どんな車に乗っていようが、運転するのは私だ。

昨日、クラスの真面目な女の子からいただいたカードには「先生は面白すぎる」と書いてあったが、私は学校ではそんなに面白い人ではないので、真面目な彼女にとって、私のどこがどんな具合に面白いと思えるのか、実は私にはあんまりよくわからないのだ。私は学校では努めて「凡庸であること」を心がけている。それが「素の私」とギャップが最も大きくて私には面白い。

私が思うがままに振る舞い、持っている力を十分に発揮することなど誰も期待していないし、それは周囲にとっても私にとっても、あんまり面白くはないのだ。子どもたちも、そんな不思議なオッサンに他の大人とは違うにおいを嗅ぎ取っているのだろう。

私はアフターファイブや土日には全く異なるフィールドを持っている。学校で必死に自己実現を追求する必要がないので、子どもを自分の生き甲斐の手段にする恐れはない。自分が貧乏くじを引こうが多少誤解を受け罵られようが、結果として子どものプラスになればそれでいいし、弁明するのも面倒くさいと思っている。というわけで、同じ場面で感じる周囲とのギャップもすざまじい。どうでもいいような場面でひとり熱くなっていたり、みんなが盛り上がっている場面でひとり覚めていたり、みんなが焦っている場面でひとり落ち着いていたりする。「凡庸であること」を求めた結果がこのギャップとはどういうことか。

それは私の学校不適応度がハンパではないことの証でもあるが、そればかりでもない。私にとって「凡庸であること」は、積極的に妥協することでも、協調することでもなく、ただ「学校的価値ではない手続きの妥当さとは何か」を求めることだからだ。「素の私」は、手続きをすっ飛ばして行動するタイプであり、極端を好む傾向があることを心得ているので、そうした手続きを踏むことの大切さを自分に課している。つまり直感的な正しい判断よりも、手続きを大事にしているということ。社会や組織というのはそういうものであり、「和しても同じない」為には、そこを守る必要があると思う。

組織から離れて自由に生きている人たちと多く付き合っていると、そのあたりの甘さをいつも感じるが、私がたったそれだけのことを学ぶ為に受けたダメージの大きさを考えると、やはり私はどうにもひどい劣等生だったと言える。多くの子どもたちや兄弟姉妹から「先生」と呼ばれたときに感じる何とも言えない心苦しさは、何年経っても変わらない。たとえ、その呼称に大した尊敬が含まれていなくても、私の現実とはギャップがあるように思える。

「Saltさん」という呼ばれ方は、先祖から受けついだ姓よりも、両親がつけてくれた名前よりも、今はぴったり来ている。文字取り「塩気を保った地の塩」でありたいと願う。ここにはみことばと現実のギャップがあってはならない。
by lastsalt | 2013-11-14 00:14 | Comments(0)