イエスのメッセージは、反対者をいっそう苛立たせ、群衆を混乱に陥れ、弟子達にさえじゅうぶん理解されなかった。それは決して聞き手に媚び売る耳障りのよい話などではなかった。
イエスの話が確信に及ぶと、弟子たちのうちの多くの者が、「これはひどいことばだ。そんなことを誰が聴いておられようか」(ヨハネ6:60)とつぶやいて離れ去った。イエスのメッセージは霊でありいのちである。道徳や処世術ではない。
パウロのことばに興味を持って聴き始めたアテネ市民も、死者の復活の話になると、ある者たちはあざわらい、他の者たちは、「このことについては、またいつか聴くことにしよう」と言っている。(使徒17:32)
メッセージの評価とは、元来そういうものである。
私は好んで嫌われようとは思わないが、誰かに気に入られる話をしようとは思わない。勿論、聴き手に敬意は払うが、伝えるべきことをキチンと伝えることを優先する。今年は改めてその思いを強くしている。そんな私のメッセージを聴いてくださった方の内面で何が起こったのか、暮らしがどう変わったのかを知りたい。キリストのいのちの結果を見たい。
万人に受ける話や軽く聴き流されるような話をしているようでは全然ダメだ。