「私たちはアブラハムの子孫であって、決して誰の奴隷になったこともありません。あなたはどうして『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか」(ヨハネ8:33)
ユダヤ人は誤った選民意識によって自分を不自由にし、その不自由さの現実を認めようとしなかった。それはまさにクリスチャンならぬクルシチャン(キリスト教徒)の心理状態である。
「選び」に不公平感を持つのは、それが優越感であれ、劣等感であれ、主がどのような方であるかを知らぬ証拠である。
「神はすべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じこめられたからです。」(ローマ11:32)
人の時空で永遠を理解することは不可能だから、選びについて教理的に理解することは難しい。ただ言えることは、「いのちの書に名のしるされていない者」というのは、初めから救われる者と救われない者が決まっているという意味ではない。いのちの書にはすべての人の名か記されているが、救いを拒んだ時点でその名は消えてしまうのだと考えた方が、主の御人格にはふさわしい。
選ばれるのは、救われる側の何かの資質や条件によるのではない。神の御前における無に等しい状態や渇きや不義や不従順を受け入れ、信仰による招きに応じたか否かに尽きる。
生まれながらのアブラハムの子孫はいない。元々アブラハムは素材としては石ころ以下である。(マタイ3:9)アブラハム自身が「私はちりや灰にすぎない」と言っているのは実に正しい。(創世記18:27)アブラハムの信仰を受け継ぐ者がアブラハムの子孫であって、結果として、選ばれし者となる。
マタイ22:1~14にある披露宴の二重の招待が、選びの本質を語っている。
「招待される者は多いが選ばれる者は少ないのです」(マタイ22:14)
ユダヤ人にも異邦人にも、すべての者に招待状は出される。しかし、その招待を受け入れない者は、結果として選ばれないのである。
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