今日の交わりの中で、「自分が正しいと思ってやっていることが、果たしてみこころにかなうことなのか時々わからなくなる」という話があった。信仰者であれば誰も明らかに間違っていることを進んで選択しようとはしない。しかし、よかれと思って誤ることもある。それが不安だというのだ。これは、多くの信仰者の共通する悩みに違いない。
私は燈火会のデザインの話をした。
子どもが描いた下絵を運動場に正確に描くために、1辺5メートルのマス目を基準線にしている。それがなければ、いくら絵心があってもバランスの崩れたものしか描けない。しかし、基準になる縦横のラインがあれば、デッサン力がなくても難しい曲線もかなり正確に描ける。この基準線こそ、聖書のことばである。みことばをおろそかにしては,デタラメな絵しか描けない。
そして、出来上がった絵は校舎の屋上から眺めるように、神の視座から俯瞰する必要がある。私たちはキリストとともに蘇って天に座したのだから。今いる地上の一点から絵を眺めれば、手前が肥大した線が見え、全体のデザインは見えない。そして、私たちはイエスの肖像を、運動場どころかさらに大きな地球規模のスケールで描いているのだ。