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by lastsalt

信仰者のささやかな宣言


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「自分は絶対に正しい」と信じ込んでいる人たちの争いは醜い。どんなにまことしやかな理屈や耳障りのよい美辞麗句を並べようが、結局彼らは「信じる対象」ではなく、それを「信じている自分」を正しいと思い込むことによって自分を保っている。「信じていると思っている自分」に騙されているのだ。それが「不確かなもの」だからこそ、他者の尊厳をも否定するようなことが平気でできるのだろう。

宗教家と信仰者は違う。私は信仰者であるが宗教家ではない。自分の価値を他者に押しつけようとは思わない。イエスが他者の悪意によって殺されることが、相対化された世界における神の絶対の表現であったことを忘れてはいけない。イエスは信仰の創始者であり完成者であったが、宗教家ではない。キリスト教の教祖さまではない。イエスはだれひとり信者がいなくても紛れもなく神の子なのだ。

私は誰も殺さない。そして誰をも否定しない。自分の正義を振りかざすと、他者の大義と衝突し、最終的には血を流すまで争うことになる。口にしていた理想などおかまいなしの醜態を晒す。キリスト教は、イエスを信じることとは本質的には無関係な集団妄想である。「あなたは間違っている」という主張を繰り返しているうちに、それは敵意に変わり、やがて憎しみを産む。憎しみの連鎖は愛でしか止められない。

私は「ただイエスを信じているだけ」で、その正当性を客観的に証明するものなどない。すべては間違いかも知れない。騙されていてもいいから愛し続けるだけだ。神はその信仰をのみ測られることを私は知っている。来世の天国に夢を託すのではない。時空を越えたイエスという存在そのものとリアルにつながっている今が、すでに永遠の入り口であり、その信仰の中に既に天国の本質が宿っている。それがキリスト教ではなく、聖書の教えるところである。

私を罵り蔑むことによって優位に立ちたければ、それもいいだろう。私の元に多くの人が近づき、そして離れていく。それもまた面白い現象として私は静観している。私に対する賞賛も非難も私はいつもクールに受け流してきた。もちろん、人に対する期待や失望もある。しかし、裏切り裏切られる経験を通して、人は人を学ぶもの。そして、共犯者の言い訳は、似た者同士の憐憫を誘うもの。かつてパウロの元を去った者も数知れない。

信仰者はその信仰によって他者を圧倒することはない。私は負けないが、あなたに勝ちにはいかない。私はすでにイエスにあって勝利をおさめているが、それはサタンに対してであって、あなたや隣人に対してではない。誰かに挑みたいのなら、結局は、神の名を語りながら人しか見ていないのだ。それは決して神などではなく自分を愛している証拠だ。誰かが私を否定するとしても、そんなあなたを私は肯定しよう。あなたはあなたを肯定する私を否定し続けるとしても・・・・
by lastsalt | 2016-07-10 13:27