毎年この時期に、「いつ」「誰と」「何を」したのか、そのひとつひとつを思い起こして整理している。
今年もいろんなところに引っ張り出してもらって、まるで活動的な人に見えるほどあれこれ経験させてもらった。もちろん、それら強いられてではなく、自ら選んでさせてもらったことばかりだ。ありがたいことに、誰かに迷惑をかけたり、大恥をかいたりするような失敗はなかったが、たとえ何かがうまくいかなかったとしても、決して関わってくれた誰かのせいにはしない。責めはすべて私が負う。
必要以上に期待されても、無理してそれに応えようとは思わないし、見当違いの賞賛や批判を受けても、等しく聞き流そうと努めている。お金も名声もない私に近づいてくるからには、それなりの動機があってのことだが、彼らのことばの裏には、時にあまり巧みではない嘘が見え隠れする。でも、私はいちいち指摘はしない。勝つことにも誇ることにも興味はない。
私のこだわりなんて所詮私だけのものだし、誰にとってもさほど意味のないものに違いない。昔は「地球のどこかにそんな何かを共有できるまだ見ぬ友に会えるかも・・・」などという淡い期待もあったが、がっかりさせられることも多過ぎて、新しい出会いを積極的に求めなくなって久しい。わかる人にだけわかればいいし、わかって欲しいという甘えはそもそもない。邪魔さえされなければ、理解してもらう必要はない。
そんな「ひねくれた私」を純粋に面白がってくれる方々は、数少ないかけがえのない友となる。約束しなくても、そういう方々とは必ず「次回」がある。相手が、同業者であっても、お客さんであっても、生徒であっても、男女や年齢や社会的地位に関係なく、何の打算も無い、人として対等な関係の中でだけ、私は「本当の自分」でいられる。私の抜け殻に金箔を貼ろうが、つばを吐きかけようが、私とはほとんど関係のない出来事でしかない。
来年も今年以上に、できるだけ大きな気持ちでできるだけ小さなことに関わりたい。多くのことを求めず、サッとやってしまうことにさえ、時間をかけて丁寧に向きあえるようでありたい。
写真は、西山タカスケ画伯の招きでギターを弾きに行った地元榛原のMoonのママとのスリーショット。去年の秋にfufufuのライブに来てくれたタカスケさんを訪ねたのがちょうど1年後の今年の秋。公開製作中の彼の作品にむけての私のコメントの中に「大事な何か」を感じ取ってくれたタカスケさん。その場で「今夜どうですか?」というオファーだった。そんな勝手なふたりの約束を軽く受け入れてくれたMoonのママの度量もすごい。
大事なのは、お客さんの数やギャラの額ではない。聴きたい人に聴いて欲しい歌を届けることだ。